新居浜硝子

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新居浜硝子 誕生ものがたり新居浜硝子 誕生ものがたり

別子の山から銅が発見された時代から300年余りの時を経た現在。

約280年間にわたり日本を代表する銅山として、日本の貿易や近代化を支えてきた
別子銅山の石から、ガラスが生まれました。

緑の山を映し込んだような「新居浜硝子」

銅をもらったこの山に、緑の森を還したい という住友の思想そのままに、
この石に含まれる鉄分が新居浜硝子の深い緑を作り出します。
まさに、天空の森の贈り物です。

新居浜硝子 その誕生の物語をご紹介いたします。

ものがたりの舞台

工業都市・愛媛県新居浜市

瀬戸内海の燧灘に面するこの街は、
南方に構える別子が銅を産出し、
近世の日本の貿易や近代化を大いに支えました。
先人たちが挑んだ自然。培い続けた技術。鍛え磨いた魂。
これらをしっかりと受け継ぎ、
新しい時代を切り拓いてきました。

ものがたりの立役者別子銅山、新居浜市を、守り・受け継ぎ・発展に貢献した人物がいました。

ものがたりの立役者 その一

ものがたりの立役者 その一別子銅山に新しい技術を取り入れた

広瀬 宰平広瀬 宰平(1828年~1914年)

「別子の産物で国益を図り 広く国家社会に貢献するようにしたい」

滋賀県生まれ。11歳から住友家に奉公し、38歳で初代別子銅山支配人に就任。「別子の申し子」ともいうべき経営者として、明治新政府による接収に立ち向かい、住友による別子銅山経営を守りました。新政府での鉱山司の役人を経て住友家総理代人を担うなかで別子銅山の近代化に奔走。 採鉱・運搬、海運、鉄道に至る殖産興業につくしました。

ものがたりの立役者 その二

環境対策の草分け的人物であり、日本で最初のCSR(企業の社会的責任)を実行した人です。

ものがたりの立役者 その二企業の責任として山の緑を取り戻した

広瀬 宰平伊庭貞剛(1847年~1926年)

「別子全山をあおあおとした旧の姿にして 之を大自然にかえさなければならない」

滋賀県生まれ。広瀬宰平の実甥。「公利公益」を旨とする住友の事業精神に惚れ込み、33歳の時に、裁判官を辞めて住友に入社しました。二代別子銅山支配人。宰平の片腕として住友家の事業や、財界活動に活躍。煙害が広がる別子から四阪島へ製錬所を移転させる一方で、荒涼たる景観になった別子山一帯に緑を取り戻すため植林し、積極的に森林計画を推し進めました。年間100万本、多い年には250万本の植林事業を実施しました。

ものがたりの立役者 その三

山根陸上競技場の整備をはじめ、山田社宅敷地の造成、道路の整備などは、住友別子鉱山職員による作務(さむ)と呼ばれる休日勤労奉仕(今日のボランティア活動)により、行われました。

ものがたりの立役者 その三新居浜に新しい産業を提案した

広瀬 宰平鷲尾勘解治(1881年~1981年)

「別子の産物で国益を図り 広く国家社会に貢献するようにしたい」

兵庫県生まれ。京都帝国大学法学部卒業と同時に住友入社。45歳で別子鉱業所支配人となり、鉱脈の枯渇による閉山の危機を迎えた別子銅山に代わるべき事業を興すべきと考え、新居浜の都市計画に着手しました。地域社会との共存共栄を図るため、新居浜の工業化を提唱。鉱山の町から工業都市へと成長させた功績は大きい。また、若い鉱山従業員の精神的向上を図る必要性を痛感し、私塾として「自彊舎」を設立し、日中は仕事、夜は自彊舎に戻り自習勉強をするといった、良識的な人間形成や自己啓発を目指しました。

現代とこれから

その土地の石を原料として作られる硝子は
国内でも数少なく、その土地の自然・人・文化・技術の賜物といえます。
新居浜硝子が人々の暮らしに息づき、新居浜の物語をつなぐ一品として
受け継がれていくことを願っています。
ここからまた一つ、新しい新居浜のものがたりが始まります。